学生の皆さんへのメッセージ

 


 

 当研究室に所属するまでに、

  特によく習得しておいて欲しい科目;
  
 必修科目; 
  英語(特に読み書き)、基礎生物学、分子生物学、 有機化学、生化学、基礎実験、化学実験、分子遺伝学、ライフサイエンス実験I, II、バイオテクノロジー実験I, II。
  
 選択(選択必修)科目;
  細胞生物学、酵素工学、微生物工学




メッセージ 2005

 社会が求める人材とは、
  「組織の歯車」か「自立的行為者」か?

 

  --- 就職活動の一助言 ---

 

 この大学で接する学生のみなさんは、能力的にも性格的にもいい人が多い。穏やかな自然と豊かな歴史に裏打ちされた「九州」という風土の特質かな、などと考えています。ただし稀には、ある種の不満を感じなくもありません。それは「一々指示を待たず、自ら考えてどんどん実行してくれないかな」ということです。狭く限定した「分担」を守ることだけで満足し、広い見通しを持って「分を越えた」行動を起こすことには臆病すぎる面があるようです。ごく私的な場面は別にして、おおやけの場では主人公的に目立つことを避け、脇役に甘んじるのを良しとする傾向が見られます。一貫した仕事の全体を支配せず、断片的な作業で事足れりとしがちです。学問的な発展性と技術的工夫の余地のある研究より、決まった手順をルーティンに繰り返す課題を選択する人には、優秀な才能の浪費ではないかと感じさせられることもあります。もっともこれは「九州」の特質ではなく、日本全体の潮流のように思います。

 誤解のないように急いで補足しますが、これは必ずしも悪いことではない。「出しゃばって人に迷惑をかけない」とか「知識のない領域に不当に口出ししない」といった美質の顕われでもあります。礼儀正しさや奥ゆかしさは、人間関係を円滑に運ぶ好ましい性質です。最近の若年層にこういう傾向が強まっているという一面があるとしたら、それは日本社会が荒々しい「高度成長期」や「バブル経済期」を通り抜けて「成熟」してきた証しである、という解釈さえ可能ではないでしょうか。

 研究室でも、指導教員に相談のないまま不適当な行動や無駄な出費をされてはたまらない、という側面もあります。上のような「不満」を感じるのは、スタッフ不足のままで研究室を運営しているお前の腑甲斐なさが根本原因だ、という批評もありうるでしょう。

 そのような見方もあることは承知した上で言わせてもらえば、幅広い視野から新規な計画を立てたり、あらかじめ設定していない役割を果たしたりという行為こそが、機械にはできない人間らしい能力ではないかと思います。学生のみなさんにそういう指向を迫る結果になっているとしたら、日本中の大学の研究室が「人手不足の零細企業」的であるという事態も、教育的には有意義だと開き直れるかもしれません。

      *       *       *

 就職協定が廃止されて以来、学生や院生の就職活動が早まっています。人事担当者を中心にこれまで企業の方々と接してきた経験から言うと、多くの会社は学生が思っているほど「従順な指示待ち人間」を求めているわけではない。礼儀正しいことや常識を備えていること、相手の心情や立場を慮れること等は基本的な前提ですが、「良いと思ったことでも指示を受けるまではしないでおき、悪いと思ったことでも指示を受ければ寸部違わずその通りにやる」という卒業生を求めているようには見えません。自ら培ってきた経験を生かし、個性的な計画を立案でき、積極的に行動する、能動的で明るい人を求めている場合が多いように感じます。せっかく良き「風土」に育まれた能力と人格を狭い殻に閉じ込めず、のびのびと展開しましょう。

 ただし心配する気持ちがあるのも分かります。自分が良かれと思って実行したことが相手には認められず悪い評価を受けるのではないか、と危惧するのももっともです。良案を思いついたら実行前に相談することも必要ですし、また、むしろそのような心配があるからこそ、在学中にいろいろ積極的に動いてみて経験を積むのが大事でしょう。面と向かって注意されることを辛いと感じるのも無理からぬことですが、一般社会に出ると「知らされないまま悪く評価され、直す機会さえ与えられない」という状況も多くなり、長い目で見ればそちらの方がより過酷な試練です。

  学窓を巣立つ前、
のびのびと力を発揮できる内に発揮しとこうじゃないか!

 

 意欲ある人を求む。

 


 


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メッセージ 2003

 君は「正解の不在」に耐えられるか?
  あなたは「100%の正答」を目指せるか?

  --- 一見矛盾する2つの要請の関係 ---


1)
 最近1年生前期の科目(「基礎生物学」)を受け持つようになって、入学したての意欲に満ちた学生に接することができるようになりました。この初々しさはたいへん好ましく、こちらも触発されてやる気が倍増します。しかし一方、入学直後の学生の中には単純で唯一の「模範解答」を求める人が少なくないことには、やや戸惑いを覚えます。「こういう観点から言えばこれが正しい」「こういう条件の下ではあちらの答えがよりふさわしい」といった条件付き解答例や、「たいていの場合にはこうだが、こういう特殊なケースではああである」といった注釈付きの長い解答にはなじめない傾向が強いようです。

 なるほど、制度化された学校教育を12年にもわたって受けた上、多者択一方式の入学試験の洗礼を通過すれば、そういう傾向があるのはむしろ当然でしょう。用意される教材や与えられる問題も、条件や注釈、あいまいさの少ない設問ほど質が高いと見なされています。

 しかし、現実の社会で遭遇する課題では、そのような模範解答があらかじめ用意されていない場合が多く、人生は複雑で多様な正答の「可能性」に満ちています。どの科目の勉強にどの程度時間を割けばいいのか、どのクラブに入ればいいのか、この人は性格がいいのか悪いのか、ここであの人に声をかけるべきか否か、かけるとして何と言えばいいのか、、、。明るい人生を切り開くには、選択の直後に模範解答が与えられない不安に耐えながら先に進むことのできる強さやおおらかさが要請されます。

 この事情は、卒業研究や大学院で体験する科学的な探究活動でも同じです。3年生までの試験や演習、実習とは異なり、研究は「こうすれば必ずうまく行く」というものばかりではありません。工夫をめぐらし努力を重ねてもうまく行かないこともある。ヒントをくれる教官や先輩は多くても、確実な正解は誰も教えてくれない。オリジナル(独創的)な研究とはもともとそういうものです。「創造性(creativity)」という語句は空虚な飾り言葉ではなく、「正解の用意されていない問題(さらには問題さえ明示されていないの)に初めて答えを出すこと」という実質的な意味内容を備えた言葉です。

 でも心配しなくて大丈夫、大学は高校までとは違う「放し飼い」状態ですから、その場その場で真剣な判断を積み重ねていけば、多くの人は3年間でその強さやおおらかさを身に付けていけるでしょう。

2)
 しかし科学的な探究活動では、これと逆さまで矛盾するかのような能力も要請されます。「90点取ったくらいで満足するな。100点を取れ」という要請です。生物化学の実験は長い一連の段階からなります。細胞を元気に培養し、標的分子を正しく抽出し、その性質を正確に予想し、活性を精度良く計算し、配列情報を解読し、、、といったさまざまな作業のすべての段階が成功して初めて目標の成果が得られます。1つの段階が90点(10分の9 の成功率)だったとしても、全体で10段階あれば最終的な成功より失敗の可能性の方が倍も高いのです。3年生までのテスト(模範解答の用意された課題)では80点取れれば「優」で、60%でも「可」でしたが、4年生以降の「オリジナルな研究テーマの探究」では、各作業に100点満点が要請されるわけです。

 これには天才的な能力と超人的な技術が必要なのでしょうか? --- おどすつもりはありません。それほど特殊な能力と技術が必須なわけではありません。「多段階すべてを1つ残らず正しく実行する」ということ自体はたいていの人がやっていることです。例えば「ある日ある時刻に横浜のある会社の就職試験を受けに行く」という場合、余裕のある時刻に起床し、必要な物品をすべてバッグに入れ、正しいバスに乗り、正しい飛行機に搭乗して正しい電車に乗り、正しい通りを歩いて目的の建物に至る、といった行動を取っているわけです。科学的研究における要素的な作業は、もちろんこのような日常的な行動よりは高度ですが、超越的に不連続なものではなく、高度ながら連続的(連続的ながら高度)なものです。要点は、それらを考え抜き粘り強く集積することにあります。

 「正解のない不安に耐える胆力」と「100%の正答を導く脳力」は同程度に必要とは限らず、片方の不足を他方の余裕で補うことはできるでしょう。私の研究室に来てくれる学生・院生には、このバランスのダイナミクスがもたらす科学の純正な感動に至りうる課題を提供します。


 

メッセージ 2002

 科学への離陸。

 

  ----- 受動的勉強と能動的探究の関係について ----- 



 「子ほめ」から始めます。
 ハンドボール部で毎日遅くまで熱心に練習している中二の子が『中学理科、第2分野』の教科書を持って質問に来ました。
 「生物の『反射』とは、熱いやかんに触れたとき『熱い!』と感じる前にとっさに手を引っ込めるような反応のことだと書いてある。これは感覚神経を伝わる信号が脊髄に達しただけで運動神経に命令を出すため、脳に伝わり意識できるより速く行動が起こせるのだ、と説明している。一方、目からの信号が直接脳に伝わることを示す図が載っている。では、ボールが飛んでくるのを見てとっさにまぶたを閉じたり頭を避けたりするのは、反射ではなく意識的判断なのか。」
 この質問はすばらしい自発的な探究心のあらわれだと感心しました。反射のしくみと視覚の伝達路を勉強した上で、それらを自分の実生活での体験に結び付けたときに起こった疑問を解決しようと努力しているわけです。
 『学研科学大事典』などの参考書を指摘すると、教科書より詳しい神経分布図を捜したりしながら、「顔面の感覚神経も多くは一旦脊髄に入って反射が起こるのだろうか」といった仮説を経由して、結局「熱いやかんの例は反射の一部であり、その他の反射として、信号が脳に入っても意識にはのぼらない内に運動が起こる場合もある」という正解にたどり着きました。ささやかな問題解決学習のひとときに、「この子はハンドボール以外のこともできる」と感動しました。

 このような例を示すと冷ややかな声も聞こえてきそうです。「低レベルのことに感動のし過ぎだ。教科書で反射の実例としては脊髄反射を挙げているが、いかに中学理科といえども定義の部分は脳を経由する反射路も除外しない正しい記述なのだから、すなおに勉強しさえすれば『感動』などという寄り道を経ずに短時間で正解に至れるはずだ。反射には脊髄反射のほかに延髄反射、中脳反射などがあるという分類を早めに教えればすむことだ」と。
 しかしそうでしょうか。知識の平板な集合体を与えられて端から順序よく消化していくというのが、常に学習のあるべき姿でしょうか。山あり、谷あり、感動あり、「知」のみならず「情」と「意」と「体」も動員しつつ、仮説と検証を繰り返すジグザグな道を楽しみながら登って行くのが本来の探究ではないでしょうか。結果的には平板に見えることがある科学的知識の体系も、人類がそれを獲得してきた過程は、多くの人が膨大な時間を費やした試行錯誤の連続でした(知の系統発生)。それぞれの人間がみずみずしい知的発展を遂げるためにも同様の過程が必要であり(知の個体発生)、未熟なうちの素朴な疑問の探究が時には知の系統発生に寄与することさえあるはずだと期待するものです。
 もちろん、大学生が中学レベルで足踏みしていていいわけではありませんし、意義ある探究活動をするためには「知識の平板な集合体を端から順に消化していく」能力もしばしば必要になります。高度な知的感動を味わうためには、その前提に「知の基礎体力」が必要です。これなしに成果だけ得ようというのは、山に登らずに山頂の景色だけ眺めたいと願うようなものです。ただし、「知の基礎体力」は「前提」に過ぎず「真髄」は別にある、というのが言いたいことです。

 


 


メッセージ millennium

 「一粒の水滴の中に宇宙が見える」ことの意味。

 

  ----- 普遍、一般性と特殊、個別性のつながりについて ----- 


 数十年前の子供には今のようなテレビゲームなどはなく、おもにビー玉やメンコ、釘など単純な道具を使って遊んでいました。ビー玉を日の光にかざすと、ガラスの中に小さな泡が含まれているのが見えます。泡の大きさや数や散らばりぐあいは玉ごとにさまざまで、目に近付けて心静かに見ていると、星々の浮かぶ小宇宙を外からながめているような気がしました。

 そんなことは長らく忘れた後それとは全く関係なく、学部学生のころ一つの悩みがありました。そのころ私が「科学」に抱いていたイメージあるいは期待は、自然界に広く普遍的に成り立つ重要でかつ一般的な法則を明らかにする営みである、というものでした。ところが講義や実習で接する先生方の関心の的はそれぞれに異なり、個別的で特殊なテーマしか追求していないように見えたのです。マンガ『鉄腕アトム』のなかで自然界と社会を透徹した眼で見はるかすお茶の水博士のような知的スーパーマンを夢見ていたのに、これではせいぜい「専門ばか」にしかなれないではないか。
 大学院に入っても基本的には同じ見方が続いていました。ただし、できるだけ自分の希望に近い普遍性の高い研究テーマを選んだせいもあり、特定のテーマを追求することの意義や面白さも少しずつながら分かってきました。一つのテーマに集中していると、ディスコに行ってもミラーボールが今調べている酵素に見えたり、洋画『エレファントマン』を見ても今使っている化学薬品名だけが特に明瞭に聞こえたりもします。自分なりに重要だと思っていた点が実験的に実証できると嬉しくなり、次の実験のアイデアが頭に浮かんで夜眠れなくなったりしました。
 そのような興奮が何度目かに襲ってきたある日、とつぜん冒頭に述べたビー玉の印象がよみがえりました。なるほど一人の人間が扱えるテーマは個別で特殊なことに限られてしまう。しかしそのテーマに本気で集中すれば、そこに科学的認識過程のエッセンスが盛り込まれているのが感じ取れるだろう。たとえば優れた教科書を読むことによって学問の成果を一覧できても、現実の自分が営んでいる活動につながりを見出せなければ、科学の真の姿を十全に捕らえることはできない。逆に、手ずから打ち込んでいる仕事にかかわりがある限り、意外なほど遠い地平の事柄にまで興味が広がりうる。このことが理解できたなら、ニュートンが自らを「広い砂浜で一枚の貝殻を拾って喜んでいる子供と同じだ」と書くときの謙虚さと自負がともに感じとれるではありませんか。古代の哲学者、宗教家が蓮の葉の上の一粒の水滴に全宇宙を見た時も、このような真理を悟ったのではないでしょうか。

 私の研究室に来てくれる学生・院生には、そのような科学の現場を体験しうるテーマを与えます。おやつのカリントウが今扱っている細胞に見えたり、晴れた日の山なみが今調べている酵素の可視光吸収スペクトルに見えるようになれば、きっとニュートンや古代哲学者に近しい自分を感じるでしょう。  


メッセージ 98

 科学はたましいの格闘技である。

 

 「科学」という言葉には、相反するイメージがつきまとっています。

(1)科学は精緻に整った法則か、雑然とした混沌か。
(2)科学の現場は、もっぱら知的なオフィースか、
    知・情・意・体を総動員する工房か。
(3)合理的・直線的・演繹的・普遍的か、
    経験的・波状的・帰納的・個別的か。
(4)決定論的で揺らぎない不動の体系か、
    工夫や努力や運不運の余地が大きい活動か。

 学部学生の皆さんの多くは、上のそれぞれの条項のうち、科学には前者が優勢である、あるいは場合によっては、まるっきり前者の性質を帯びている、とお感じではないでしょうか。科学の成果を学ぶ段階では、それは無理からぬこと、むしろ当然のことであるとも言えるでしょう。
 ところが、大学院での研究を本気で遂行した人は(人によっては卒業研究段階でもそうでしょうが)、全く逆の印象を持つはずです。それは、科学が日々「生成」しつつある現場の人間活動には、科学の成果としての体系とは、大きく異なる面があるからです。
 これはしかし、考えてみると特別なことではなく、種明かしをしてみれば、たとえば映画を撮影する作業と、でき上がった作品との違いを想像してみれば、当然のことだと類推できるでしょう。
 私が時々講義などで学生の皆さんに、自分で計画を立てた旅行や、献立作りから洗い物まで含めた自炊を勧めていますが、これは精神的な姿勢のような点で、科学的活動にも通ずるところがあると思うからです。

 私の研究室に来てくれた学生・院生には、このような、科学の生成の場を体験しうるテーマを与えます。


メッセージ 97

 

実験事実と思想とのダイナミックな関係について。

 

  科学的活動には、次の2つのやり方が必要だと思います。

 (1)どれだけ少ない手がかりから、他の人が気づかない事実を発見し、
   他の人が思いつかない仮説を作ることができるか。

 (2)ある主張に、どれだけ緻密な証拠をそろえ、どれだけ揺るぎない
   結論として育てられるか。

 この2つはある意味で矛盾します。(なぜなら、前者はできるだけ乏しい事実をある命題に結び付ける行為であり、後者は、ある命題をできるだけ豊かな事実に結び付ける行為だからです。)この2つの傾向を合わせもつことが、本当の科学者の条件だと思います。この2つの事柄の関係のダイナミックさは、書物を読んでも感得できません。実際に自分の研究テーマを持ち、現実に自分の手を動かし
ト実験を進めてみなければ分かりません。私の研究室に来てくれる学部4年生と院生には、このエキサイティングな関係を感得しうる科学的テーマを与えます。ただし、実際にこれを感得するか否かは、あなた自身に依存します。
 
 ここでは科学的活動について述べました。しかし同様の関係は、知的活動一般に成り立つのではないでしょうか。
 たとえばあなたがある企業か団体に就職して、開発職についたとしましょう。先輩が去年やったのと全く同じことを繰り返す仕事の間は、上で述べた様なことは何のかかわりもないと思います。
 しかしある時点で、新しい企画の提案と実行を含むような仕事を任されたとしましょう。あなたは、偏った範囲の事例、おのおのから出された勝手な要望、無味乾燥に見える膨大なデータ、といったものの中からある「意味」を見つけ、筋のとおったコンセプトをまとめなければなりません。次には、その実行のための作業手順の立案、資材の手配、適任者の確保、打ち合わせ、といった具体化作業が必要になるでしょう。このような形の仕事をいつも担当するとは限りませんが、ここには、科学的活動との同形性が認められると思います。言いたいことは、本気で「科学する」ことは、知的作業一般の1つのプロトタイプでもありうる、ということです。そのような活動の性格を「クリエイティブである」と言います。